恐怖の掛け算でパニック障害になったかもしれないという話です。
私が、パニック障害になってしまったきっかけは、化学物質である香水の匂いを嗅いだときでした。
高校を卒業してから、一時的に香水を使った時期もありましたが、使うたびに喉が焼け付く感じや、喉が絞まる感覚がありました。
そのため、しばらくしたら香水を使うことはやめましたが、さすがに他人の香水の使用や柔軟剤の使用には口出しできません。
そして、とある蒸し暑い夏の日に、友達の香水の匂いを嗅いでしまい、苦しくなりました。すぐに、呼吸が困難になったわけではありません。まずは、首の周りがかゆくなり、息がだんだんと吐けなくなる感覚がありました。
そして、発作が始まりました。
喘息にも似ている発作でした。
X 喘息
不安障害やパニック障害は喘息持ちだった人がなりやすい傾向があるようです。
そりゃそうですよ。と、思ってしまいますが。
喘息の発作はかなり苦しいです。死ぬなんて事はなくても、「死ぬかも」と思ってしまいます。
その発作を何度となく繰り返していると、この感覚が「恐怖感」を作り出してしまいます。
X 親の教育
親が子供を育てるときに、脅しとも言えるような言葉を使うことがあるんですよね。たいていは、親が言うことを聞いてもらいたい時、自分の都合の良いように、支配したい時とでもいいましょうか?
よくあるのは、「言うことが聞けないなら、出て行きなさい」
とかですね。子供からしてみれば、恐怖ですよ。まだ多くのことができない子が親の保護から外れると言う経験は、恐怖です。
この安全を感じられないような言葉は子供を不安定にします。
X 子供のころの性的な恐怖
異性に体を触られるって、恐怖ですよ。例え、それがどんなに小さな事でもです。
頭、肩とか手を触るなら、まぁ、ありかもしれないなんて思ってしまう範囲ですが、相手が発している雰囲気、表情から、それが、性的な意味で触ってきていると幼いながらに、察したときは、ひどい嫌悪感を感じたものです。
恐怖と嫌悪感は、ひとつの対象を強く拒絶すると言う意味では表裏一体のものです。
子供のときのことだからと、記憶から薄れたとしても、感情として「恐怖=嫌悪」は心に残っています。
X 大人になっても性的な恐怖は消せない
大人になっても、道を歩いていて見知らぬ人に触られたり、見知らぬ人に裸を見せられたりしたら、例え、気にしないようにしようとしても、どこか、心に恐怖を作ってしまいます。
「人生、色々と起こるものだ」と思ったとしても、また、痴漢にあわないか心配になってしまい、外を歩くのにも警戒心が強く働くようになりました。
必要以上の継続的な警戒心というのは、心を疲れさせます。
X 治安への不安
住んでいる地域の治安ってやっぱり人の心の安定には大事です。
私は一度空き巣に入られています。
鍵をかけていたのにもかかわらずです。どんな手でも使ってやってくるんですよ。
だからこそ、恐怖!!
気をつけていたのに、アパートに入られたという感覚は気持の悪いものです。「恐怖=嫌悪」が心の中に発生し、自分の部屋にいるのに、安心できないと言う、心の落ち着かない生活を送ることになります。
X 将来への不安
将来はうまくやっていけるのかが心配。20代前半の頃は、結構、将来のことを考えて不安になりました。
このままマッサージの仕事を続けるか、新たな職の訓練を受けるか、しかし、職の訓練に時間を費やしたところで、どうなるかわからない・・・
そんな不安は、健康な状態であれば、割と払拭しやすいのですが、体調を崩してしまい、医療にお金がかかりすぎた時は、結構、精神的ダメージが多かったです。
X 心の葛藤
また、自分は将来は色んな国を見て回りたいと言う思いもありました。
が、女一人で色んな国に行くという危険性、経済的な面でどうか、キャリア形成が遅くなるのではないかと言うことを心配しました。
やりたい事をやるのは、聞こえはいいが、それには多くの責任も伴うし、必ずしもすべてがうまく行くはずが無い事も考えてしまうと、非常に不安になりました。
「あれをやりたい、しかし、本当にいいのか?」
などと、葛藤しているだけならいいのですが、ここに、神経質な不安が湧き上がってきたら、アウトです。
もしかしたら、海外で射殺されて死んでしまうのではないかと言ったような心配ですね。
今は思いますが、やりたいことはやった方が、変に悶々とせずに過ごせるので、やってしまえ!と、思いますが、あくまでも、きっちりと下調べと下準備をした上で「やれ!」と、思っています。
掛け算しすぎると増えていくから、いつしか手に負えなくなる
軽くざっくりと私が何に恐怖を感じてきたかを書き並べてみました。
あなたは、何に対して恐怖を持っていますか?
たいていの人は、何かひとつだけの出来事で、神経症にかかるとは思いません。
多くの場合、色んな出来事が積み重なって、最終的に神経症に行き着いてしまったのだと思います。
自分の心の回復のためには、恐怖に向き合うと言うプロセスが必要になってきます。恐怖を無視しながら、回復すると言うのは、まるで、傷を見ないで傷を手当しようとするようなものかもしれません。
でも、本当にその傷を見ることができないならば、誰かに頼んで、一緒にその傷の手当をするのも手です。